けいおにうす

よろづ記録用

名刀関兼定

暇にかこつけて…って訳じゃないですが、観劇から一週間、まだまだ余韻を引き摺っているので国会図書館デジタルコレクション」より漁ってきたものを記しておこうと思います。

 

(なるべく元の旧字、旧仮名に寄せますが、パソコンの変換で出ないものは諦めてます。ご了承下さい。一応以下も利用しつつ作成しています)

www.benricho.org

 

 

 

 

「日本名宝物語 第2輯」(P.90~92)

名刀關兼定 ◇……細川護立侯爵家所藏

dl.ndl.go.jp

 

     ○

「ふむ、こいつは善く斬れる!」

 これは首切り淺右衞門(あさゑもん)としてその名を天下に謳はれた山田淺右衞門吉睦が兼定の名刀を試したときの嘆聲(たんせい)、業物は三齋細川忠興の愛刀である、和泉守兼定は濃州關の住人で永正年中に活躍した關鍛冶を代表する名工、この一振りは勢州山田に移つた後に鍛へた名作だけあり、淺右衞門は試し斬りに據(よ)つて「これぞ無類極上の大業物なり」と、その著作に書き殘(のこ)してゐる。

 この一振りで三十六人、細川忠興が人を斬つた所から、古來刀劍界に「歌仙斬り」と銘打たれた業物とて、熊本五十四万石の舊(きゅう)城主細川護立侯爵家では、藩祖の身替りの如く奉り、一點(てん)の曇さへも恐れると云ふ重寶(てうほう)である。

     ○

 世に「忠興の妻」は、餘(あま)りにも有名な一節であるが、この賢婦光秀の女玉の方と婚約の出來(き)たは天正三年、同五年に勇んで信長が雜賀(ざふが)の一揆退治に初陣、翌六年八月、十六歳で結婚したものである。

 この夫妻、ともに信長に愛せられ、忠興は側近に侍つてゐたものだが、或る日、ふと信長の小刀を見れば、その束に九耀の置物があり、それが妙に忠興の氣(き)に入り、信長には無斷(だん)で紋所とし帷子(かたびら)につけたものである。

「どこから取つた?」信長は怪しんだ。

「柄の置物が耐(たま)らなく目についたので――」

「可愛い奴だ、では定紋とするが宜(よ)い」

 といふ譯(わけ)で信長も笑つたほど、小さな話ではあるが、忠興の勇猛な氣性の蔭(かげ)に早くも風流な面影が既に現れて面白い。

     ○

  元來忠興は豪勇猛氣の武將(ぶしょう)で、天正十年八月、丹後弓木の城主一色義有(ぎゆう)(妹婿)を宮津城内に招きその領土を奪はんとした義有の野心を憎み、酒宴の最中に起(た)つて拔(ぬ)き打ちに、義有の首を空に飛ばしたほどである。

「忠興には早くから歌の稽古をさせたかつた、少しは氣も穩(やわら)ぐであつたらうに」とばかり、常に父は苦勞したと云ふ。所が、忠興はよく父の心を知つてゐたらしいけれども、決して腰折れを一つ作らうともしなかつたものである。

「歌道にかけては豚兒(とんじ)の我が、一首でも詠めば父の名を汚すものだ」とは、忠興が晚年の辨明(べんめい)、ゆかしい心である。

     ○

 慶長四年二月、石田三成は大阪表(おもて)で家康を斃(たふ)さんと圖(はか)り、前田利家と通謀(つうぼう)して忠興に持ちかけたところ、忠興が絕對反對(ぜったいはんたい)で立ち消えとなつた。三成はなほ計畫(けいかく)を捨てずまた自宅に招いて賴むのである。

「今宵、内府に夜襲をかける、加勢して貰ひたい」
「宜(よ)からう、だが、その後は何とする」
 忠興は、咄嗟の思ひつきで難論を吹きかけ、時を費す策に出た、三成は不用意に乘(じょう)ぜられて機を失し、翌日、忠興は家康に告げて虎口(ここう)を脫(だつ)せしめたのである。

 ――忠興の聲望地力(せいぼうじりき)には、三成も及ばなかつたが、才人(さいじん)才に倒れ三成は遂に「忠興の妻」を玉造(たまつくり)の館に襲ひ、忠興が上杉征伐に趣(おもむ)いた不在中、これを人質とせんと圖(はか)つたので、節を守つて賢婦は遂に自殺するに至つたのである。

     ○

 元和六年剃髮して三齋宗立(そうりつ)となつて以來、日頃の武勇は一切忘れ、隱遁(いんとん)風雅な生活に入つたけれど、その愛刀に殘る三齋好みの拵付(こしらへつけ)は「歌仙拵」として後世に頗る珍重され、名刀の譽(ほま)れは更に高く、身長二尺餘(よ)の鎬(しのぎ)造り、頭は四分平山道(ひらやまみち)、緣(ふち)は革着せ靑漆塗(せいしつと)、金鉈豆の目貫に黑塗鮫茶革卷の柄、鍔は鐵(てつ)丸型左右影蝶透し、茶糸の下げ緖きりつと結び、腰元刻み鮫着せ墨塗硏(とぎ)出し鞘――一度拂(はら)へば風を切り、霜を呼び、淺右衞門極め付の大業物は天下一品、忠興が朝鮮、關ケ原、茶臼山などに揮(ふる)つた武勇を語り、名工の誇そのまゝ、細川家鎭護(ちんご)の神刀である。

 

(意訳)

「ふむ、こいつはよく斬れる!」

 これは首切り浅右衛門としてその名を天下に謳われた山田浅右衛門(江戸時代に御様御用(おためしごよう)[刀剣の試し斬り役]を務めていた山田家の当主が代々名乗った名称。死刑執行人も兼ね、首切り浅右衛門のほか人斬り浅右衛門とも呼ばれた)吉睦(5代目。1767-1823。3代目吉継の娘の嫁ぎ先である湯長谷藩士・三輪源八の子。後に“”右衛門と名乗ったため、以降の当主は朝右衛門となる)がこの名刀を試したときの嘆声(嘆いたり感心した時に漏らす溜息)だ。この業物(名工の作った、切れ味の優れた刀。名刀)は三齋細川忠興の愛刀である。

 その刀を打った和泉守兼定は濃州関(美濃国。現在の岐阜県関市)の住人で永正(1504-1521)年中に活躍した関鍛冶を代表する名工である。

 この一振りは勢州山田(伊勢国。現在の三重県伊勢市)に移ったのちに鍛えられた名作だけあって、浅右衛門は試し斬りの切れ味のよさから「これぞ他に比べられるもののない大業物だ!」と、その著作(『懐宝剣尺』)に書き残している。

 細川忠興がこの一振りで三十六人斬った所から、刀剣界おいて「歌仙斬り」と銘打たれた業物として名が知られており、熊本五十四万石(400万程度?)の旧城主・細川護立(細川家第16代当主。1883-1970。芸術に造詣が深く、1950年には細川家伝来の美術品や古文書を保存する目的で「永青文庫」を設立した)侯爵家では、藩祖(江戸時代の日本に存在した各藩の開祖、又は初代藩主とされる人物)の身替りの如く奉り、刀に一点の曇りがつく事すら恐れると言うほどに重宝(貴重なものとして大事にすること)している。

     ○

 「忠興の妻(細川ガラシャ(玉、又は玉子))」と言えば世の中のみんなが知っているほどあまりにも有名なフレーズだが、この賢婦(賢い女のこと)光秀の女(娘の意。憶測から検索をかけこちらを採用しています)である玉と婚約できたのは天正3年(1575)のこと。忠興は同5年(1577)に信長の雑賀一揆退治(2月~3月頃。現在の和歌山市を中心とする紀ノ川河口域あたりで起こった一揆)に初陣、翌6年(1578)8月、16歳で結婚した。

 この夫妻は共に信長に愛され、忠興は側近として侍っていた(信長に、というより信長の嫡男・織田信忠か?)が、ある日、ふと信長の小刀の柄(小柄。日本刀に付属する)に九耀の置物(装飾部分のこと?)があり、それが妙に忠興を惹き付けたため、信長には無断で紋所(その家の定まった紋章。家の定紋)として帷子に使用した。

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九耀紋

 怪しんだ信長は「どこから取った?」と問いかける。

「柄の置物にたまらなく惹かれ、目についてしまって――」

「可愛い奴だ、ならば定紋として使うといい」

 そう言って信長も笑ったほど、小さい話ではあるが忠興の勇猛(勇ましくて非常に強いこと)な気性の影に早くも風流な面影が現れていて面白い。

     ○

 もともと忠興は豪勇猛気(四字熟語として発見できず。勇ましくて荒く猛々しい気質)な武将で、天正10年(1562)8月、丹後(現在の京都府与謝野町岩滝)弓木城の城主・一色義有(別名・一色義定(よしさだ)。忠興の妹・伊也の婿)宮津(現在の京都府宮津市鶴賀にあった城)内に招き、宮津城のある領土を奪おうとした義有の野心を憎み、酒宴の最中に義有の首を宙に飛ばした程である。

「忠興には早くから歌の稽古をさせたかった。そうすれば少しは気性も和らいだろうに」とばかりに父(細川藤孝(幽斎))は苦労したという。ところが忠興はそんな父の思いを知っていたらしいが、決して腰折れ(ヘタな詩歌や文章。自分の詩歌や文章を謙遜して呼ぶ語)の一つも作ろうともしなかった。

「歌道において豚児(自分の子供の謙称。愚息)の私が、一首でも詠めば父の名を汚してしまうだろう」というのは忠興の晩年の弁明(事情などを説明してはっきりさせること)、奥ゆかしい心である。

     ○

 慶長4年(1599)2月、石田三成は大阪表で家康を倒そうと謀り、前田利家と通謀(二人以上の者がグルになり、示し合わせてことを企むこと。共謀)して、忠興にも同じように話を持ちかけたところ、忠興が断固反対するため、話は立ち消えとなった。三成はなお計画を諦めず、また自宅に招いて忠興に頼んだ。

「今夜、内府に夜襲をしかける。加勢してくれ」

「いいだろう。だが、夜襲を行った後はどうする」

 忠興は咄嗟の思い付きで難問をつきつけ、時を費やす策に出た。三成は何も用意していなかった、と乗せられて機会を逃し、翌日、忠興は家康に告げて虎口を脱する(非常に危険な状態から抜け出る。虎口を逃れる)ことに成功したのである。

 ――忠興の声望地力(四字熟語として発見できず。世間の良い評判と人望、持っている土地の生産力)には三成も及ばなかったが、才人才に倒れ(才能に優れた人は自分の才能を過信しすぎて、かえって失敗するものという故事ことわざ。才子才に溺れるとも)三成は遂に「忠興の妻」を玉造の館(現在の大阪府中央区)で襲撃(1600年7月16日)。忠興が上杉征伐に趣いた不在中、その「忠興の妻」を人質にしようと謀ったため、節(自身の持つ信念)を守って賢婦は遂に自殺するに至ったのである。

     ○

 元和6年(1620)に出家して剃髪、三齋宗立となってからはそれまでの武勇は一切忘れ、俗世を逃れて風雅な生活に入った。けれども、その愛刀に残る三齋好みの拵付(日本刀の外装。鞘、柄、鍔などを総称したもの)は「歌仙拵」として後世に頗る珍重(珍しいものとして大切にされること)された。名刀の誉れは更に高く、身長二尺余り(1尺9寸9分5厘≒60.5cm)鎬造り、頭は四分平山道、縁は革着せの青漆塗、金鉈豆の目貫に黒塗鮫茶革巻きの柄、鍔は鉄の丸型で左右に蝶透かしがあり、茶糸の下げ緒はきりっと結ばれ、腰元刻み鮫着せ墨塗研ぎ出し鞘――。

 一度はらえば風を切り、霜を呼び、浅右衛門は極めつけに「大業物として天下一品」と謳って、忠興が朝鮮、関ケ原茶臼山などでの武勇も語ったため、名工の誇りを保ったまま、細川家を鎮護(乱を沈めて外敵、災難から守ること)する神刀となっている。

 

 

参照

細川忠興 - Wikipedia

細川ガラシャ - Wikipedia

細川忠興と織田信長の関係は?家紋や甲冑についても解説! | 歴史をわかりやすく解説!ヒストリーランド

山田浅右衛門 - Wikipedia

伊勢国 - Wikipedia

和泉守兼定 - Wikipedia

山田奉行 - Wikipedia

「日本刀の位列・業物」

石高(こくだか)換算表 - 戦国未満

細川護立 - Wikipedia

紀州征伐 - Wikipedia

小柄 - Wikipedia

一色義定 - Wikipedia

大阪カテドラル 聖マリア大聖堂 | OSAKA-INFO

【刀剣ワールド】拵とは?|刀剣の基礎知識

歌仙兼定 | 武士道美術館

歌仙兼定 | 日本刀や刀剣の買取なら専門店つるぎの屋

 

永続的識別子 info:ndljp/pid/1177692

タイトル 日本名宝物語. 第2輯

著者 読売新聞社

出版者 誠文堂

出版年月日 昭和5

請求記号 597-37

書誌ID(国立国会図書館オンラインへのリンク)000000768800

DOI 10.11501/1177692

公開範囲 インターネット公開(保護期間満了)

 

 

(以下ひとりごと)

 

ウィキは参照に使えないってのは百も承知の上で成り立ってる、限界社会人の 一考察文なので適当に流してくれ!

なるべくウィキ開きながら上げてないこまごまとしたページも回ってまとめているけど、文献じゃなくてネットonlyでまとめ上げてるので信憑性も説得力もないよ!

 

 

って言うのだけまず注意に置いときますね。いやぁ、「文献漁りてぇ~~~~」って何度思ったか……まあ、手軽に調べられるのがネットの良い所ではあるんですけれども。おかげで会社の暇つぶしにこんなの書いてるわけだし

元々こういうのは嫌いじゃないので久々にやって楽しくなりました。またやろ。

 

刀ステ引き摺ってるからこんなの調べてきたわけなので刀ステの話になるんですけど、古今伝授が歌仙をあおるような発言が多かった、というか「あなたは歌わないんですか」としきりに言ってた理由がちょっと垣間見えた気がしました。

多分こんなん前回の時にちゃんと調べとけ、っていうか歌仙推しの人、刀剣や歴史ガチ勢には今更~って感じなのかもしれないですけど、「父ちゃん凄すぎてそんなそんな……」って感じで歌をそう詠まない忠興……

いやね、ステでも原作(ゲーム)でも文系名刀として雅を愛し「歌をしたためたくなった」みたいな話もあったので、詠むのが大好き!もっともっと作るぞ!みたいな意欲的なタイプだと思っていたんですよ。忠興も、その刀である歌仙も。

だからこの話題がちょっと意外で、だからこそ古今伝授より歌を詠まないのに納得する……

古今伝授のほうが佇まいや使う言葉に品があり、造詣が深いのかな?

ってイメージがこの話のお陰で納得がいったというか。 すげえな、こんなとこまで勉強して反映させた結果だとしたらほんと恐ろしいジャンルじゃん刀剣乱舞……

 

まああと最後の歌仙兼定の紹介文ね!

つらつらっと書いてあるけどきっと講談師とか落語家とか、噺のプロに語らせたら耳触りが良さそうな纏め方だと思う。テンポが良い。「身長二尺余の~」って所から喋ってほしいよ、録音するから。

本のタイトルが「名宝物語」なのでね。賛美を連ねるのはきっとお手の物なんでしょうよ。他のページは絵とかでさらっとしか目を通してないんですけど、きっとそっちも綺麗な言葉が並んでいるんでしょう。

 

そういえばこの2輯の一番最初の項が「一期一振」だったので、そっちも読もうと思います。でも先に長義のがないか見たいな。伯仲知りたい。都合よく存在しているかどうかは知らんけど。

 

まあそんな感じで、この関兼定の回は終わりにします。

(私はどうでもいいところで引っ掛かるタイプなので「関兼定って何?!」ってところで時間を取られました。序盤じゃんねww)

読んで頂きありがとうございました!